『雨と夢のあとに』

柳美里原作ということで『雨と夢のあとに』のドラマを見て、いっそう原作を読みたいと思った。

はじめての図書館

しかし訪れる本屋には柳美里の本すらない。amazonで検索したら、あったけど、マーケットプレイスのものだけ。「紀伊国屋」とか「ジュンク堂」とか、聞いたことのある大きそうな本屋の在庫検索システムを使ったけれど、どこにもない。しかも「重版の予定なし」とある。

中古を買うくらいなら、と図書館の在庫検索システムで検索した。確かにいくつか取り扱っているけれど、あまり近い地域ではない。しかし、あれ、どうやら大学の、大きいキャンパスの方の図書館にはあるみたいだ。

大学の図書館のホームページに、貸出予約システムがあったので、学籍番号でログインしてみる。タイトルを入力して、表示された情報を確認し、予約を済ませた。受け取りが理系キャンパスの方になっていた。

次の日、メールが来た。もう貸出が可能とのことだった。一日で本がキャンパスを越えた。二日後、カウンターで、慣れない私は、「本を予約したんですが」と学生証を出した。司書さんは本の名前も何も聞かず、学生証を手元の機械でスキャンして、「一冊きてますね。少々お待ち下さい」と奥へ引っ込んだ。すぐにまた現れ、「こちらでよろしいですか」と、私の予約したその本を手に見せた。はいと言うと、その本を別の機械にスキャンさせて、「28日までです」と私に手渡した。

すごい!本が、私の読みたい本が、私の手元にきた。ペンもハンコもいらないんだ。中学校から一度も図書館を利用していないけれど、小学校の頃は、図書カードに名前を書いて、司書さんにハンコをもらって・・・なんてことをやっていた気がする。本を借りる度、その図書カードの名前欄を見るのが楽しみでもあった。シリーズ物を借りると、私の前に並ぶ名前は見覚えのあるものばかりだし、逆に名前が全くないと、これマイナーなのかなぁなんて思ったりした。

私の手元にきたその本は、きれいにコーティングされていて、バーコードがついていた。

あらすじ

この本のあらすじはこうだ。母親のいない家庭で育った小学生の娘・雨は、父・朝晴と二人で幸せに暮らしていた。ある梅雨の日、朝晴は蝶の採集という趣味のため訪れていた海外にて、不慮の事故により命を落としてしまう。しかし待ち続けた雨のもとに朝晴は帰ってきた・・・そう、父は死してなお娘への思いを断ち切れなかったのだ。

ドラマと原作の違い

ドラマは全10話で、上記の基本設定は変わらない。しかし雨は中学生で、朝晴は心の通じ合う人と同じ幽霊には姿が見える。原作ではクラスメイトだった北斗という男子は、ドラマでは面倒を見てくれるジャズバーの夫婦の息子で、浪人生だ。朝晴が幽霊であることは雨には隠しているため、見える人は見えない人が現れる度に、なんとか間を取り繕う。

原作ではジャズバーは出てこないし、朝晴が幽霊として姿が見えているのかどうかも、わからない。物語は雨の視点でつづられているため、朝晴の姿は確かにあるのだが、おそらく周囲からは認識されていない。

ただし、隣に住む女性・暁子は朝晴と会話することも、触れ合うこともできる。これはドラマでも同様だ。暁子は母親のように二人の面倒を見てくれる、美しい女性。ドラマでは、朝晴と雨にとっては頼りになるヒーロー的ポジションだ。

主人公・雨

雨は、普通の小学生。物語も、言ってしまえば小学生の作文のよう。しかし、「うわっメリープだ!」と聞いて、どれくらいの人がそのキャラクターの愛らしさを想像できるのだろう。「ポンポネットのスカート」と聞いて、どれくらいの人がその形や色を想像できるのだろう。この作品は、決して読みやすくはない、と思う。思う、というのは、私にはすんなりと読むことができたからだ。流し読みのできない私には、読みにくい文章の方が心地よいのかもしれない。しかし何故柳美里は、こんなにも「小学生の女の子」になれたのか。なるほどあとがきに、小学生の女の子に取材したという記述があった。

ドラマが面白かったから、と原作を読むと、確かに痛い目にあう。インターネットで検索すると、レビューは批判的なものばかり。確かにドラマは、色んな幽霊が出てくるし、笑いあり涙ありの、いかにもウケのよさそうな展開だ。しかし原作は違う。面白いことなんてほとんど起こらない。でも、だからこそ、朝晴の死が、ものすごく巨大な事実として迫っている。少しずつずれていく日常と、それに抗ったり、順応したりして、日々を進む少女。

隣人・暁子

個人的には、暁子の存在がとても印象強かった。以下ネタバレになるので、読んだ方や読む予定のない方は白文字を反転させて下さい。

暁子はドラマでは、ただの隣人として登場し、周囲ともうまくやりとりしている。しかし物語終盤で、暁子は数年前に亡くなっていたことと、隣はずっと空室だったことが明らかになる。そこへ愛していた男性が、新しい恋人を連れて、戻ってくる。暁子は、死ぬ間際まで、ずっと彼の帰国を待っていたのだ。でも、彼は帰ってこなかった。暁子は死んだ。それでも待っていた・・・終盤で暁子がベランダから侵入?してくるまで気づかなかったので、私にとっては結構な衝撃だった。

原作では、まぁドラマを見ていたから知っていたというのもあったけれど、暁子はどこか現実感のない存在。特に周りとのやりとりもないし、気がつくと部屋にいる。しかし、隣のベランダから度々侵入してくるゴキブリが描写される度に、隣の部屋の様子を想像してしまい、ぞっとした。

こちらでは暁子は恋人と別れておらず、男性が音信不通の彼女の部屋に訪れたところで彼女の死が発覚する。このときの描写がすごい。家中ネズミやゴキブリや虫だらけで、ただよう腐臭に男性は嘔吐連続。肝心の暁子はウジにまみれて原型を留めていない。

暁子は死ぬ前に手紙を書いていた。投函したのは、死んだあと、かわりに頼んだ雨によって、だった。だから日付は死ぬ前なのだが、男性の元へ届いたのは大分後になる。

暁子が恋人である男性に宛てた手紙には、彼女の心境が綴られている。暁子は、男性を愛していた。男性も、暁子を愛していた。しかし暁子は、とらわれていた。男性の一度の過ちに、とらわれていた。男性が他の女性と体を重ねた、その事実を、彼女は受け入れようとしていた。忘れなかった。本当に愛し合っているのなら、受け入れなければいけない。彼女は男性がその女性とどんな行為をおこなったか、細かく聞き出した。女性が男性の性器を口に含んだこと、男性に突かれた女性が喘ぎ声をあげていたこと・・・暁子はそれらを受け入れようとした。しかし受け入れようとすればするほど、とらわれる。眠る度にその夢を見る。男性の隣にいても、暁子のまぶたの裏には、女性の上で腰をふる男性があり、男性の下で身をよがらせる女性があった。でも暁子は忘れようとはしなかった。一年間も。そして男性は暁子の異常に気づかない。だってこの一年間ずっとあの出来事については触れてこなかったし、もう結婚式場もおさえてあるし、招待状だって出したんだ、だからもう何も問題ない、そう思っていたようだ。暁子の死をほのめかすような手紙を見ても、彼女は強い人だし自殺なんてしない、と考えている。けれど暁子は、忘れるという逃げ道を選べなかった。自分が自分であるために。

事実と夢の狭間で

暁子の心理描写には、自分と重なるところがあった。本当に愛し合っているのなら、受け入れなければいけない。だから辛い事実だって、相手と共有するために、徹底的にそれを描写してもらう。忘れることやごまかすことは悪であり、事実を受け止めるのが正義なのだ。自分は受け止めることができる。受け止められないなんてことはない。知らない方が幸せなこともあるというのなら、幸せなんていらない。自分は受け止めることができる。受け止められない自分なんて・・・

でも、暁子を見ていて、「本当に、受け入れられないことは、よくないことなのか?」という考えが浮かんだ。忘れてしまうことは、ごまかしてしまうことは、そんなに悪いことなんだろうか。「受け入れられないこと」を受け入れることだって、できるんじゃないだろうか。

読んでいたときは、物語での暁子の役割が、ただの花としてしか捉えられず、正直雨と朝晴の物語には関係ないんじゃないかなぁって思ったのだけれど、こうして書いていると、事実を受け入れることの自由に戸惑い迷う雨と、事実を受け入れることの強迫に気が狂ってしまった暁子は、対称的な存在だったのかもしれません。