本を読むことへの苦手意識

私は本を読むことが苦手である。

本が好きそうだ、と言われることは少なくない。だが、苦手である。その苦手意識について自分なりに思うことを、何人かの親しい人には話していたことではあるけれど、文書化したことはなかったので、こうして記事にしてみた。

書いていて気分が悪くなってきたので、読んでいても気分が悪くなるかもしれない。だから、あまり読むことをお勧めできない。

小学生の頃は、確かに図書館を利用していた。青い鳥文庫の、「クレヨン王国」シリーズをよく読んでいた。中でも「月のたまご」なんかは8巻くらいまであって、かなりの長編であったが、それでも読み切っていた。

いつからだったろうか、字の一つ一つが気になりだした。例えば「本を読む」という文章があるとする。それが目に入ると・・・横に棒が一本あって、でも右端が少し尖ってて・・・ううんでもこれは横棒だ、それで次に縦棒があって、そうしたら左のはらいと右のはらいがあって・・・あとはなんだか微妙なところに横の棒・・・それでこれは「ほん」と読む、あれ、本当にこれはあの「本」でいいのか?横に棒が一本あって、右端が少し尖ってて・・・そんなことを考えている内に、自分が最初の一文字目から文章を読み進められていないことに気づき、焦り出す。おかしい、文章っていうのはもっとこう、声に出すように、あるいはそれより早く、読み進めることができるはずだ。そもそも文章より上の階層に文脈というものがあって、いつまでもこんな風に字の一つ一つにとらわれてしまっていては、やっと一文の意味が理解できたところで、また新しい一文を理解し、そしてそれら文の意味する文脈を感じ取らなければならないのだ。気が遠くなる。そもそも一文理解したところで、進んでいくにつれて本当にその一文を理解したのかどうかが不安になり、また戻って読み直す。こんなことの繰り返しで、焦りはつのるばかりで、本というか、文字を目にするのが怖くなった。

といっても常時そういう状態であったわけではなかったはずで、一応学校の勉強にもちゃんとついていけていた。ただ、今でもしっかりと覚えていることがある。文章の内容までは思い出せないので、そこらへんは適当に補足して、思い出しながら書く。中学の試験期間、理科のテスト前日だった。私は自分のノートを見返そうとして、「2.体のしくみ」という最初の一行にかれこれ30分もとらわれていた。進めない。「2」って、何の「2」?「1」の次だ。そして、「.」がある。区切りの「.」。そして・・・「体」・・・「の」・・・「し」・・・「く」・・・いや、「しく」・・・いや、「しくみ」・・・えっと、「2」だ・・・「2」・・・そして「.」・・・いや何やってるんだ、だってこれ題名じゃん・・・試験関係ないよ・・・いやでもじゃあ試験に関係あるところってどこ?二行目は「2.1」・・・またタイトルで・・・三行目は「ヒ」「ト」「の」「臓」「器」・・・えっと、「2」で・・・「体」・・・「の」・・・また最初からやり直しだ・・・進めない・・・そうこうしている内に時間ばかりがすぎ、焦りは増していく。試験は明日なのに、勉強なんて全然できていない。字が読めない。どうして?普通のことが、当たり前のことが、できない。どうして?お菓子の賞味期限も、はがきの宛名も、うまく読めない。字を見るだけで思考がぐるぐるして、苦しくて、気が狂いそう・・・

多分、情報量を過剰に受け止めていたのだと思う。だからカラフルだったり、図が挿入されていたりすると、余計に辛かった。字に色がついたりなんかしたら、余計に考えることが多くなる。図は字でない線が多いから、情報量はさらに増える。社会科の資料集なんかは、本当にひどかった。それから、フォントも影響していた。教科書体や明朝体・ゴシック体は最低限の字の形を成し得ているものなのでまだいい。しかしポップ体だとかは、太さも変わるし線の向きはバラバラだしで、本当にひどい。ポップ体は配布プリントの題字に多かった。どういうわけか、学校の先生はやたらと題字にポップ体を使いたがる。

前述したように常時そういう状態であったわけではなかったはずだが、それでも確かにそういう状態にあったことが頻繁にあった。日常生活で目にする文字すらうまく読めないのだから、本からはなおさら離れていった。中学のときの図書館利用回数は0。高校のときも図書館利用回数は0。「好きな本は?」と聞かれても「本は読みません」。「じゃあ漫画は?」と聞かれても「読みません」。漫画も字と図が織り込まれているのだから、同じようなものである。

病気なのかどうかは、わからない。たまたま字の認識が困難だっただけなのかもしれない。しかし、置いてあるものは机や部屋に対して直角でないと落ち着かないだとか、飲み込んで窒息するんじゃないかと怖くて大きな飴が舐められなかったりだとか、他にも思い当たる、几帳面さを通り越した、強迫観念はあった。ただ、高校生のとき、直角や確認の癖は「気にしちゃだめだ!」と意識することで、ある程度矯正に成功した。それに伴って文もなんとか、多少は読めるようになってきた。それからパソコンの画面も、「文字を読む」という意識があまりないからか、ある程度は読むことができる。それでも一冊何かを読もうとすると、どうも躊躇してしまう。読み始めてみると自分が負担というかストレスを感じているのがよくわかるし、また以前のようになってしまうのが、怖い。

プログラマは本をよく読む、ようだ。そしておそらくその「読む」というのは、一字一句という意味ではない。拾い読みでもいいときだってあるのだと思う。でも私にとって、拾い読みはとても難しい。本に表されているそのままの情報量を受け止めることでやっとなのだ。

それでも、少しずつ、できることはやるようにしている。柳美里さんという作家の本は何故か私には読みやすく、読み切る度に「一冊読めた」という達成感があるので、恐怖も薄らいできているように思う。

今はまだ、勉強するときは、ググったり人に教えてもらったりしている。でも、いつか私も、一人で本を読めるようになれるといいな、と思う。オライリーなんて読むことができたら、それはもう克服といえるでしょう。